雑記控え

三友亭雑記の控えです

萬葉集の学び始め おまけ

前々回、前回と続いて、私が大学で万葉集を学び始めたころ、萬葉集巻九の1679番

 

城國爾キノクニニ 不止將徃來ヤマスカヨハム 妻社ツマノモリ 妻依來西尼ツマヨシコサネ 妻常言長柄ツマトイヒナカラ 紀伊の国に 止まず通はむ 妻のもり 妻寄し来さね 言ひながら

一云 嬬賜爾毛ツマタマフニモ 嬬云長良ツマトイヒナガラ

一に云ふ 妻賜ふにも 妻と言ひながら

万葉集巻九・1679

を訓んだ時の記憶をたどってみた。萬葉輪講会という自主的な研究会において、当時一年生であった私が初めて報告を担当した短歌である。

繰り返しは避けたいので詳細は、

http://sanpendo.wp.xdomain.jp/2021/04/03/post-400/

http://sanpendo.wp.xdomain.jp/2021/04/10/post-410/

を読んでいただければと思うのだが、その二つ目の記事で、私がこの報告において少々こだわった点について触れた。4句目、「妻依來西尼」の「尼」という文字の読みについてである。

周知のごとく万葉集の時代にあってはまだ平仮名は存在しておらず、その時代の人々は漢字の音やら訓やらを利用して日本語の「おと」を表記していた。当該の文字はおそらくはその音によって日本語の「ね」という音を表そうとしていたというのが、一般的な考え方であった。その意味は「希求」…すなわち何らかの行為を他者に要請する意を示す…そんな終助詞であると多くの注釈書は説明していた。しかるに、当時最新の注釈書であった新潮の古典集成「萬葉集」はこれを「に」と訓み、その意味を「ね」と同じ「希求」とした。

はたして「ね」とよむことがこの歌の作者の意にかなうのか、それとも「に」と読んだ方が作者は膝を叩いてくれるのか…

奈良時代に合って他者に対して何らかの行動を「希求」する終助詞として「ね」も「に」も存在することは前回に述べたことである。だったら、「尼」という文字のよみ方として「ね」が正しいのか「に」が正しいのか…が次の争点となるが、これもまたいずれもあり得るとするのが前回述べたところであった

しかしながら、作者がこの歌を詠んだときはそのどちらかであったことは疑いない。学び始めの私は、その最新であるという理由をもって古典集成の「寄し来さに」という訓みに惹かれているとの由の報告をし、H先生よりやんわりとたしなめられた。

てなことを書いたら、玉村の源さんからありがたくも次のようなコメントをいただいた。

同じ巻9の1694番の四句目が「吾尓尼保波尼」という本文で、これを諸注釈は「われににほはね」と訓んでいますので、1つ目の「尼」は「に」、2つ目の「尼」は「ね」の仮名としていますね。 こういう例があるので、「尼」を「に」と訓むことは十分に可能でしょうね。

源さんが教えてくださったのはこの歌。

鷺坂作歌一首

栲領巾の 鷺坂山の 白つつじ 我れにほは(吾尓保波) 妹に示さむ

萬葉集巻九・1694

当該の第4句のみ原文を示した。問題は「尼保波尼」の部分である。

この部分、多くの諸本「尼保波弖」「尼保波氐」として「にほはで」と訓まれてきた。ただ、いくつかの本では、「にほはで」のまま「尼」と書いていたり、「にほはに」と訓み「尼」と書いている。

古い時代の注釈書では「にほはで」の訓みを前提に説明を施しているのだが、「萬葉考」にいたって「さて此四の句の氐は泥にてねの意なり」として、初めて「にほはね」という訓みを示した。さらには萬葉集略解がこれをっ継承し、「波の下の尼今氐に作、官本によりて改めつ。尼をねのかなにも用ふ、泥を省けるか。」とし、さらに「にほはねはにほへを延云也。」としたのに以降の注釈書はおおむね従っている。

これに異を唱え「にほは」と訓んだのが、新潮社の古典集成である。さらには古典集成「萬葉集」の著者の一人、わが師匠M先生の師匠である伊藤博先生ここもまた「先生」とよばずにはいられないが著された「萬葉集釋注」もこれに従っている。そこにあまり詳しい説明はくわえられてはいないのだが、「に」とも「ね」ともよめる「尼」の字であるが…同じ句の中でしかも2字しか間に挟んでいない同じ「尼」の字を「に」とよんだり、「ね」とよんだりするのは変じゃないか…ということらしい。

確かに萬葉集全体を見渡した時、「尼」の字は「に」とも「ね」とも音読される。それはおそらく筆録者によるのだろう。だとすれば、この当該の部分は、どう考えても複数の筆録者は考えられない。「吾尓尼」までが筆録者Aで、「保波尼」を筆録したのがBだなんてあり得ない。その一人であるはずの筆録者が「尼」と書いて、一方では「に」とよませ、そのたった3文字下で「ね」とよませた…これは考えにくい。

かくして、私はこの「にほはに」と訓むことを支持する次第である。となれば…1679番の「依來西尼」も「寄し来さね」ではなく「寄し来さに」と訓めるということになりはしないか…

ただ、このことにもっと自信をもって「どうだ…」とばかり胸を張るには少々早すぎる。

まずは

この当該の部分は、どう考えても複数の筆録者は考えられない。「吾尓尼」までが筆録者Aで、「保波尼」を筆録したのがBだなんてあり得ない。

とは書いたものの、本当にあり得ないのかどうか、すなわち一つの句の中で一つの文字を違った音でよむ例は本当にないのかどうか確認する必要がある。

さらには、仮に一つの句の中で一つの文字を違った音でよむ例がなかったとして、1694番歌でのことを1679番歌に適用するためには、この二つの歌の筆録者が同じ資料であることが、言い換えれば同一人であることが条件となる。一部の注釈書にはそのように考えている向きがあるが、そのあたりの検証も必要であろう。

ところで、上に示した源さんからのコメントに私は

次の発表を任されたのがこの鷺坂の歌でした。ただ…たぶんこの「こせ尼(ニ・ネ)」のこともあったので、結構問題意識をもって取り組んだはずなんですが…記憶がないんですよね

とお答えした。「結構問題意識をもって取り組んだ」のは覚えているのだが、報告の際にどのようなことを言い、どのような反応があったのか…ほかの部分についてのものは僅かばかりであるが記憶が残るのだが、この部分に関してはまったく記憶がない。

情けないことながら、不思議なことでもある。

万葉集の学び始め 実践編2

…とだいぶ長くなってきた。あと少々というところまできたが、こっから先がちょいと私が言いたいことを言った部分になる。そこのところは次回に回して、今日はここまでにしたい。

と、前回は中途半端なところで終わってしまった。であるから、今回は当然その続きということになる。「こっから先がちょいと私が言いたいことを言った部分」なのであるが、それはただ私が「言いたい」と思っただけのことであるから、ここでそんなにハードルを上げてもらっては困る(笑)。

では…「一云」以下についてである。前回は「嬬賜爾毛」の部分の「爾」を「南」の誤写とする理解について、

この誤字説はこの部分が本文の「妻寄し来せね」の別伝で、同様の意味「妻を賜りたい」と云う意味でなければならず、略解あたりまで行われていた「賜ふにも」の訓ではそうはならないところから、ここは願望の「なも」がほしいところだという判断から来たのだろうと思う。

としながらも、

しかしながら誤字の可能性を考えなければならないのは、伝わってきている文字面ではどうしても理解できない場合に限る。この場合、どうしても「爾」のままでは理解できないのだろうか…

と述べた。

さて、近世から近代にかけて、この誤字説が主流だった中で窪田空穂「万葉集評釈」は

「爾」の字をそのまま「に」と訓む「妻給にも」という訓を提示し、

妻を賜わりたいものだ、妻という名のままに、「にも」は「なも」に同じ。「に」は願望の助詞。

とした。「にも」が「なも」と同じならば、ここはこれで意味が通ることになる。しかしながら、そんなに都合よく願望の助詞なんかあるのかよと、ここは一回疑ってかからなければならない。そこで頼りになるのは時代別国語大辞典か日本国語大辞典。確かにその存在は確かめられた。この時のメモはすでにないから、今手元にある精選版日本国語大辞典の記述を以下に示す。

[終助] 1 《上代語》活用語の未然形に付く。他に対してあつらえ望む意を表す。…てほしい。 「ひさかたの天路(あまぢ)は遠しなほなほに家に帰りて業(なり)をしまさ―」〈万・八〇一〉

さらには岩波古典大系万葉集」の頭注にも

妻賜はにもー妻を賜わりますように。賜ハニモは、賜ハナモに同じ。ニは動詞未然形について、ほかの人の行為を期待し、勧める意を表わす。

とあった。

これならば無理な誤字を考える必要はない。古典大系以降の注釈書も多くこれに従っており、この考えに従うべきではないか…と。

以上が私の萬葉輪講会での初報告である。まあ、もっと調べるべき点・考えるべき点はあったにしろ、ほんの4か月前までは高校生だった人間しかもあんまり文学というものに縁がなかった(笑)がここまでできれば上々じゃないかと思う。

そして、一通りの報告が終わった後、本文「妻依來西尼」の部分についての訓みに少々の疑義をさしはさんだ。この部分の訓みについては「万葉集略解」が「つまよしこせ」と改訓し、その後多くがこれに従ったとし、いったんはこれに従うべきであろうと報告した。が…私は当時最新の注釈書であった集英社古典集成「萬葉集」が示していた「妻寄しこせ」という訓みが気にかかっていた。これまで「ね」と読まれてきた「尼」という字を「に」と読んだのである。

寄しこせに 「に」は希求の終助詞。異文の「にも」も同じ。

と古典集成は説明する。先ほどご説明した終助詞の「に」と同じものとの理解である。「ね」の方の意味は前回かんたんに説明したとおり。念のためにここで日本国語大辞典精選版の説明を示しておこう。

〘終助〙 文末にあって動詞型活用の語の未然形および禁止の「な…そ」をうけ、他者の行動の実現を希望する意を表わす上代語。下に感動の「も」の添った「ねも」の形もある。

「に」も「ね」も動詞の未然形に接続し、他者に対して何らかの行動を希求する意味を示す。そう変わらない私なんかは、そもそもこの二つは同語であると認識しているのだが根拠はない。言ってみればどっちでも言わんとしている中身は同じ。「に」と読もうが「ね」と読もうが変わらないわけであるが、ここで問題となってくるのは、「尼」という字の読みである。現在の私たちの読み方に従えば「に」と読むことが自然なような気がするが…果たして万葉集の時代はどうなのか。これについては以下に詳しい。

尼は万葉仮名としてネとニとに使われている。潮舟・さ阿後尼あごねの原・筑波嶺つくばね・そね(助詞)・ね(助詞)に使われたのはネ、にほふ・に(助詞)に使われたのはニである。 元来、尼の字は、韻鏡では、内転第六開、脂韻三等の文字で、広韻では女夷切である。これは上古音が董同和の脂部陰声開口に属する文字で、nied→nie→ni という変化を経た文字である。従って、nie の段階ではネを表わし、ni の段階の音ならばニの音を表わしうる。日本に入った古い字音(推古朝から藤原朝以前)ではネと聞えるのであったろうし、その次の時期に至っ ては中国における変化を反映してニと聞えたであろう……ネと二との中間の音であったからであるわけではない。

岩波古典大系万葉集二」p466 1689の補注

内転第六開とか脂韻三等とかちんぷんかんぷんの言葉が並んでおり、さっぱり訳が分からないが、まあ、「尼」という文字の発音が「ね」から「に」へと変化し、この文字が使用された歌が「ね」と読んでいた時期のものならば「ね」と読むべきだろうし、「に」と読んでいた時期ならば「に」と読むべき…ということだろう。そしてその境界を藤原朝以前と以後に分けている。

とすれば、今回割り当てられたこの歌がいつ詠まれたものかはっきりすれば、「に」と読むべきか、「ね」と読むべきかがわかってくることになる。

しかしながら…この歌の場合、その判断が簡単にはいかない。この歌が詠まれたのははっきりしている。大宝元年である。当時の都は藤原京。藤原時代ということになる。だから「ね」と読むべきだと判断すべきだ…と言いたいのだが、あと数年もすると都は平城の地へと遷る時期で、いわば時代のはざま。ひょっとしたらもうすでに「に」と読むようになっていたかもしれない…とも考えられる。

だから…私としては「妻寄しこせに」という訓みの可能性にも惹かれるものがある…とその時提案した。最新の注釈書が示した案というところに私は飛びついたのだ。

H先生は「どちらの訓も成り立つ以上、あえて改訓することは避けた方がいいのではないかな。」という趣旨のお言葉をいただいたような記憶がある。むろん、先生は決して「に」と読むことを否定されたわけではない。ただ、さしたる根拠もなくむやみに新しい方向へ進もうとした私にやんわりと釘を刺されたのである。

万葉集の学び始め 実践編1 

ともあれ、ここまで学んだことを1つの形にしなければならないときが来た。

そう、初めての発表である。あてがわれたのは・・・

城國爾キノクニニ 不止將徃來ヤマスカヨハム 妻社ツマモコソ 妻依來西尼ツマヨリコサネ 妻常言長柄ツマトイヒナカラ

一云 嬬賜爾毛ツマタマフニモ 嬬云長良ツマトイヒナガラ

万葉集巻九・1679

という短歌。底本は校本萬葉集の底本である寛永版本。底本通りの訓みを分かりやすく漢字かな交じりで表記すれば

紀伊の国に 止まず通はむ 妻もこそ 妻寄り来さね 言ひながら

一に云ふ 妻賜ふにも 妻と言ひながら

となるのだろうか。私が輪講会で発表したのはおおよそ以下の事項についてである今思い返せる限りでは…

まず本文の異同。これは一句目「城國爾」の部分の異同。「爾」が「尓」になっている写本や注釈書があるが、これは異体字の関係新字・旧字の関係?…異体字と旧字の違いが未だによく分からないのだ…にあるものと考えてよいもので、本文を底本のテキスト通りに「城國爾」として差し支えない。他、二句目「將」を「将」、「來」を「来」にしているものもあるが、これも同じなのかな?。底本に従うことにした。まあ、何でもないといえば何でもない作業ではあるが、このあたりに関して全く知識の無かった当時の私には、これには何かあるに違いないとかなんとか、あれこれ考えこんでしまって、けっこうな時間を費やしてしまった記憶がある。

また、「一云」の部分の「云長」を「云長」としている写本・注釈書がいくつか見られた。どちらも「ながら」と読みうる表記である。だから「どっちでもいいじゃん」と言いたいところだが、そんなわけにはいかない。よくは覚えていないのだが、私が確認しえたことは次のようなこと。

古い写本の方でここを「長」とするものが多く、「長」とするのは類聚古集という写本ぐらい後に発見された広瀬本も「長良」であった。類聚古集と広瀬本の関係を考えるとちょいと興味深いであること。これに対し、近代に入っての注釈書の多くが「長」としていること。そして、「長」としている注釈書では、なぜ「長」を「長」と改めたのかの根拠に触れたものがない。

今になって、その「長」と改めた側の立場に立って理由を推定するならば…本来、一云のここはもともと「長」であったが、本文の方が「長」と記されているためにそちらに引きずられて多くの写本たちが「長」としたのではないか…ぐらいの考えがあることを報告するのではないかとは思う。もっとも、写本の系統などを考えて行けばまた別の考えも出てくるのだろうが、あいにく私にはその方面の知識がすっからかんである。下手に触れればやけどをする恐れがあるので、そっち方面には深入りはしないだろうなあ。

本文の異同を考えた後は訓みである。

まずは二句目「妻社」。古くは「つまもこそ」「つまをこそ」と訓まれていたが、江戸時代の注釈書「萬葉童蒙抄」が旧来の訓みに対し

木の國故、木の神爪津姫つまつひめと神社を被祭たると云事を不辨、その氣の付かざるより無理注をなせり

とし、

紀伊國は木の國にて、則木の神を被祭て其木の神は妻津つまつ姫と奉稱也・・・木の神を都麻都比賣つまつひめと奉稱事は、神代紀に見えて前に注せり。妻木と云も此所以也。然れば此歌紀伊國は妻と云名の神ますなれば、とことはに通ひて祈らん程に、妻を依こさしめ給へ、妻津姫社へ詣來ん程に妻と云名を負給ふ社からは、妻をよせこさせ給へと云歌也

との理解を示した。

すなわち、この歌が歌われたのは紀伊国であり、紀伊国には「妻と云名の神」がいらっしゃるので、この歌はそれを詠んだものだとしたのである。すなわち「社」を「もり」と訓み、「妻の神の社」と考えるべきだというのである。そして以降の諸註釈はこれに従ったということを私は報告し、私もそうではないかと意見を言ったように思う。

その際には「社」という字を「こそ」訓むのは、神の社の前では「かくあれかし」と願いを立てることから願望を表す助詞「こそ」に繋がるのだと言うことこれは何を参考に行ったか覚えがない。そしてこれを「もり」と訓みうるのは窪田空穂の万葉集評釈に「『社』は森で、神霊の宿る所として、森がすなわち社だったのである。」と説明されていることを紹介したかと思う。

とすれば「妻のもり」はいずこかという問題が生じるが、これにも諸説ある。これには上に紹介した「萬葉童蒙抄」に現在和歌山市に存する伊太祁曽いたきそ神社の右脇殿に祀られている都麻都比賣命神社を挙げ、これに従うものも多いが、他にも「萬葉地理研紀伊篇」が紀伊名所圖會に「妻村にありし森なるべし。妻村は大和街道にて上古御幸道なり」とあるのを重視して、「妻」の地を現在の和歌山県橋本市妻の地の森だとしている。なお同書は海草郡和佐村字關戸現在の日高郡日高川町に、妻御前社という神社があることも紹介している…てなことを言ったような…言わなかったような。

今ならば、一歩進んでこの歌が大宝元年紀伊行幸の帰り道に詠まれた可能性が高いであろうこと古典集成を前提に、歌の配列からみてこの歌はまもなく大和に入らんとする橋本市妻の森説を述べたであろうと思うが、当時はそこまで勉強できてはいなかった。

続いて第四句。「妻依來西尼」の訓みである。この句旧来は「つまよりこさね」と訓まれてきたが、「万葉集略解」が万葉集巻十四・3454に

庭に立つ 麻手小衾あさてこぶすま 今夜だに 都麻余之許西禰つまよしこさね(夫寄しこせね) 麻手小衾

とあるのに従って、「つまよしこせね」と訓み、後の注釈書はこれに従った。多分その時は句末の「ね」は希求の助詞「ね」で、「私に「妻を寄こしてください」の意味である程度の説明をしたかと思うのだが、今ならば武田祐吉萬葉集全註釈」に

ヨシは、寄せる。四段活用としている。「妹慮豫嗣爾メロヨシニ三友亭注 目ろ寄しに 豫嗣豫利據禰ヨシヨリコネ」(日本書紀三)。コセは、希望をあらわす助動詞 。「須臾毛シマシクモ 不通事無ヨドムコトナク 有巨勢濃香毛アリコセヌカモ」(卷二、一一九)の如く使用しているので、コセが未然形であることが知られる。それに、助詞ネが接續して、希望をあらわしている。

あるのを紹介し、もう少し詳しく話をしたであろうと思う。

さらに言えば、「西」の文字。旧来の訓によればこれを「さ」と訓んでいることになり、略解以降の訓によればこれを「せ」と読んでいることになる。それぞれ我々が現在この漢字を「サイ」、「セイ」と音読していることが想起させられるが、略解が示した訓によればこれは「せ」と訓まなければならない。これについては日本古典文学大系萬葉集」の・・・の補注に詳しいが、ここでは省略。もちろん、これを発表した当時はそんなことまで思いつかなかった。

結句、「妻常言長柄」は訓みに異同はなく、「妻と言ひながら」と理解して差し支えなかろう。「ながら」は「 ~の性質そのままに。」の意で、「妻と言ひながら」で「妻というその名のままに」となる。

続いて、「一云」以下の「嬬賜爾毛」を「嬬賜南」としている注釈書があること、「あること、これを解決しなくてはならない。万葉集中には「一云」とか「或云」の形で、収録された歌の別伝を記載している場合がある。先に挙げた「長良」は別伝でそう書いていたのだろう。ここで問題になってくるのは三文字目の「爾」の文字である。「尓」との異同は上に述べた通り。そのまま訓むとすれば「妻賜ふにも」あるいは「妻給はにも」となる。 これを「略解」と「萬葉集古義」は「爾」を「南」の誤りとして「ツマタマハナモ」と訓み、「妻を賜へと神に祈なり」との理解を示した。以降、近代に入り萬葉集全釈は「爾」のままでこれを「な」と訓み「賜はなむ」とし、萬葉集総釈もこれに従った。

しかしながら誤字の可能性を考えなければならないのは、伝わってきている文字面ではどうしても理解できない場合に限ると私はH先生、M先生に教わった。。この場合、どうしても「爾」のままでは理解できないのだろうか…そのあたりで折衷案的に考えたのが全釈の「爾」のままで「な」と訓む説である。全釈の注者はそのあたりを考えていたのであろうか。

おそらく、この誤字説はこの部分が本文の「妻寄し来せね」の別伝で、同様の意味「妻を賜りたい」と云う意味でなければならず、略解あたりまで行われていた「賜ふにも」の訓ではそうはならないところから、ここは願望の「なも」がほしいところだという判断から来たのだろうと思う。けれども…

…とだいぶ長くなってきた。あと少々というところまできたが、こっから先がちょいと私が言いたいことを言った部分になる。そこのところは次回に回して、今日はここまでにしたい。

万葉集の学び始め 5

その書を手に取ったのは、大学に入って2ヶ月もたった頃であろうか。結構記憶ははっきりしていて、どんよりとした空の下、大学帰りの、駅に向かう道の途中の自分の姿がありあり思い浮かべることができる。書店の名は海老山書店。駅から大学へだらだらと商店街にたった2つあった書店の1つだ。

その書の名は「萬葉古径」。当時は中央公論社文庫として出版されていた。著者は沢瀉久孝おもだかひさたか。その頃にはもう何度も参加した萬葉輪講会で、毎回のように(というより毎回)耳にしていた名である。いや、呼び捨てはちょいと気が引ける。なにせ沢瀉久孝は萬葉輪講会のお世話をしてくださっていたH先生の師匠、そしてH先生が御退官になった後の大学の2年の年から輪講会でお世話になったM先生の師匠の師匠にあたるお方なのだから。しかしながら、卒業論文のご指導を頂いていた時にM先生からは論文中にあっては、その客観性を保つためにも人名に関しては○○氏と書くこと、あるいは呼び捨てにするようにとのご指導があった。私はその後もその教えを忠実に守っているのだがむろんその後学術論文を書くような機会はない (笑)、今書いているのはそんなたいそうなものではない。したがって以降は沢瀉先生と書くことにする。

沢瀉先生は昭和万葉学の集大成と言ってもよい大著「萬葉集注釈」の著者で、萬葉学会の初代代表でもいらっしゃったお方。「萬葉集注釈」は当時少なくとも私たちの間では万葉集の歌々を調べるときにはまず最初に開くべき基本図書であった。事実、私たちがお世話になった天理図書館では、閉架式というその図書館の性質上、ほかのほとんどの万葉集の注釈書は書庫にしまわれており、必要があれば司書の方に取りに行ってもらわなければならなかったが、この「萬葉集注釈」他 岩波大系 小学館全集 新潮集成もは参考図書として、誰でも手に取れる書架に収めてあった。そして…諸先輩方の学びの結果であろう…全20巻のすべてが背表紙が外れそうになるほどヨレヨレになっていた。

その「萬葉集注釈」の沢瀉先生が戦前に著した「萬葉古径」を私が手に取るようになったのは…

上記の如く、その頃私はもう幾度か萬葉輪講会に参加し、なるほど万葉歌を訓む「読む」ではないということは、こういうことなのかと漠然と思いはじめていた。そしてこの頃は、夏休みに予定されている輪講会の合宿において行われる新入生の初発表の準備も始めなければならない時期でもあった。新入生の初発表の準備には3年生の先輩が1人に1人ずつついてすなわちマントゥーマン、万葉歌の訓み方について教えてくださるというのがならいであった。

まずは本文の校合。校本萬葉集を見て諸本の異同を見ること…できれば複製本があれば、そこにある写本のもとにあたるべきこと。

万葉集はもとは漢字ばかりで書かれているので、漢字の意味を調べ基本的には大漢和辞典にあたるべきこと、場合によっては平安から鎌倉にかけての古い辞書にもあたるべきこと、その漢字は万葉集の中ではどのように使われているか、できる限り用例にあたっておくこと。そのためには萬葉集総索引という便利な書物があると言うこと現在はCDロム化されもっと便利になっているらしい

言葉の意味を調べるに時には、日本国語大辞典、時代別国語大辞典上代後に角川がでっかい古語辞典を出したので、今はそれも必見になっているのかな?を必ず見るべきこと。それだけではなく先ほどの萬葉集総索引を駆使して、疑問に思う言葉の使用例にあたらねばならないこと。

そしてあたう限りすべての注釈書にあたるべきこと。そしてその注釈書になにがしかの引用があった場合は必ず原典に当たるべきこと。そのほか諸々…

そしてそれら方法についても先輩は実に熱心に教えてくださった。そしてその先輩が読んでおくといいよと勧めてくださったのがこの「萬葉古径」であった。

「萬葉古径」は平たく言えば、沢瀉先生がその訓みや解釈に問題ありとされた萬葉集中の1首に焦点をあて、詳しい…実に詳しい訓釈を施した書である。たった1首の短歌を訓むために、ここまでしなければならないのかそれどころではないたった1語の意味や漢字の訓のために・・・私は驚愕したちょっと大げさ (笑)

試みに、その中の1つの概略を示してみようか

第1巻p30~p36「み山もさやにさやげども」 小竹之葉者ささのはは 三山毛淸尓みやまもさやに 乱友 吾者妹思われはいもおもふ 別來礼婆わかれきぬれば

有名な柿本人麻呂の巻二133番の歌である。この歌の三句目「乱友」について沢瀉先生は文庫本にして36ページも筆を振るう最近の大きな字の文庫本じゃあないよ

まず先生はこの句の三句目「乱友」がどのように訓まれて来たか、その来歴を語る。古くは「ミダルトモ」と訓まれていたこの句は、鎌倉時代の僧仙覚が「ミダレドモ」と改訓し、後に江戸時代初期まで多くの注釈書がこれに従った。江戸初期に一案として「マガヘドモ」の訓みを提案する注釈書代匠記もあったが、これに従うものはなく、賀茂真淵により「サワゲドモ」、橘守部により「サヤゲドモ」の訓みが提示され、近年にいたっているこの一文が書かれた昭和12年

しかるにこの流れに反して昭和に入り山田孝雄氏は、「亂」の字を「サワグ」「サヤグ」と呼んだ例は「證古今に存せず」とし、さらに奈良時代には「みだる」は4段活用だったのでその已然形に「ども」が接続した者と理解して差し支えない、と断じた万葉集講義。以降、「サヤグ」説を唱える学者もこの山田説を真っ向から駁するものはなかった。

これに対し沢瀉先生は万葉集中の「みだる」の用例に隈無くあたり、以下のような結論にいたる。

「亂る」の語は、古くは自他共に四段活用であったと想像することは出來る。熟語として四段の名殘は後世のものにまで見える。しかし單獨の動詞としては、他動の場合に四段かと推定せらるるにとどまり、ーーそれもいつ頃よりサ行にじたのでーー自動の場合は文献の存する以來旣に下二段になってゐたものである。卽ち、本論の主題の歌の第三句を「ミダレドモ」と訓むべき「證古今に存せず」と申すべく、その訓には從ひ難ひのである。

そして「乱」の字が本当に「サワグ」「サヤグ」と呼んだ例は「證古今に存せず」と言えるのかの論証へと進み、さらにはいくつかの段階を経て、この「乱友」を「さやげども」と訓んでいいのではないかとの結論にいたる。そこにいたるまでが全部で36ページである。

上に示した「乱」が四段活用であるとの確実な例が奈良時代には認められないとするまでの考察に沢瀉先生は8ページの紙数を尽くされた。本来ならば残り28ページの論の展開もお伝えするべきであろうが、ここまで書けば私の意図するところはご理解いただけたかと思うし、第一このまま沢瀉先生のなさった作業のすべてを紹介し続ければ、この記事はいつ終わるとも知れぬ。さらには、拙文によりこの書に興味を抱き、手に取ってみようとお思いになった方の楽しみを奪ってはいけない。

大変な世界に足を踏み入れてしまった…と思った。それとともに、まことに魅力的な世界が私の目の前に広がっていることを私はこの書によって教えてもらった。

今も、時々手に取る大切な一冊(本当は全三巻)である。


上の文中、旧字体新字体があちらこちらに紛れて使われているが、これは以下の2つの基準で使い分けた。

万葉集の「万」の字については、基本的には書名、組織名を示す(いわゆる固有名詞)場合 は、その書、組織がどちらかを使っているかに従った。それ以外は基本的には現在通用している「万」の字を使っている。

・引用文中は、その書にあるとおりの字面を使っている。

以上は当然と言えば当然の措置ではあるが、これまで自分が書いてきたものを思い返せば、そのあたりがいい加減になっていたように思う。これを機に、このあたりを厳密に運用して行きたいと思う…どこまでできるかは自信ないけれど…

もう一年宇陀で働きます

 

本当は前回までの続きで「万葉集の学びはじめ 5」を書こうと思っていたのだが、今回はちょいと寄り道。

私は昨年の8月に60才の誕生日を迎えた。この3月31日をもってめでたく退職辞令を拝受し、4年前に赴任した今の職場を離れる・・・予定であったのだが、先日上からのお達しで、再任用という形でもう1年(あるいは数年)、今の職場にとどまることになった。

思い返せば30数年前、大学を出て2年ほど大阪ではたらいていた私が、大和の地で働き始めたのが今の職場であるから、今更ながら縁の深い職場であると感じる次第である。

なんてことを思いながら、とある予感に基づき、グーグルマップを立ち上げ、ちょいとした実験を行ってみた。

[caption id="" align="alignnone" width="400"]山部赤人の墓[/caption]

まずグーグルマップにて「山部赤人の墓」を探し出す。

続いてその地点で右クリックして現れたメニューの一番下「距離を測定」をクリックする。続いて地図をぐっと南東に移動させ、大宇陀町体育館の前庭のある1点を探す。その一点におかれているのは

柿本人麻呂馬上の像

柿本人麻呂である。その地名は宇陀市大宇陀中庄、万葉集では阿騎野と詠まれた場所である。そう・・・柿本人麻呂

東の 野にかぎろひの 立つ見えて 返り見すれば 月かたぶきぬ

と歌った、その地である。写真の像はこの歌にちなみ建立されたものである。

ともあれ、その1点をクリックする。するとたちどころに地図上の、この2点間に直線が引かれ、その直線距離が10.01kmと表示される。今の場合、この10.01kmという距離はさほど大事ではない。問題はその2点間の引かれた直線である。

私はさっきの予感に基づいて、その直線を北東へとたどって行く。

思っていたとおりである。山部赤人の墓から4kmちょっとの場所に、我が職場はあった。

かつて一世を風靡した「レイライン」を私は信奉するものではない。そしてここに示した直線は、その「レイライン」と呼べるような代物ですらないことも重々承知している。しかしながら、このような事実を知ってしまうとちょいとうれしい気持ちになってしまうことを禁じ得ない。しかも方角を考えれば山部赤人は我が職場より鬼門の方角に眠り、柿本人麻呂の馬上像は裏鬼門の方角に安置されている。

万葉集を代表する2人の歌人が私を守護してくれている・・・そんな他愛もない勝手な妄想を楽しむには十分な事実である。

ところで、私は定年退職の日を前に他愛もない妄想に浸っていたとき、大和に住み万葉集を愛好するものにとってきわめて大きなニュースが入ってきた。奈良大学の上野先生がこの3月31日をもって奈良大学を離れ、先生の母校である東京の大学に赴任されるというニュースである。 https://www.yomiuri.co.jp/local/nara/news/20210317-OYTNT50029/ U先生も私と同い年。大学の教員であるから、私たちとは制度も違っているのだろうが、60歳といえばやはり人生の節目の年である。新たな旅立ちがそこにあっても何の不思議はない。大和に暮らし、万葉集を愛好し、先生のお話を聞いては、古代に思いを馳せていた私どものようなものにとっては、先生が大和の地を離れると言うことはまことに寂しい限りである。しかしながらこればかりはどうしようもない。先生のこれからのご活躍をお祈りするばかりである。

万葉集の学び始め 4

勉強しなければならぬ…と深く心に刻まれはしたものの、万葉集がどのような書物であるかと言った知識すら私はろくすっぽ持ち合わせていなかった。それなら、なんで万葉輪講会などに足を運び始めたのかということになるが、それは http://sanpendo.wp.xdomain.jp/2021/02/20/post-354/ を読んでいただけばと思う。とにかく大学に入った当初、私は本屋に行く度に「万葉」と背表紙にあるものはとにかく手に取って、懐中の許す限りのものはできる限り自分のものにすることにした。もちろん、懐の寒い学生が贖うことのできるものと言えば、文庫や新書の類いである。その時期に私が目を通したもの、を思い出しうる限り以下に示す。

万葉開眼()()万葉開眼 土橋寛 NHKブックス 万葉集の美と心 青木生子 講談社学術文庫 万葉集入門 人間と風土 久松潜一 講談社現代新書

以上の3冊は、万葉の時代の民俗や風俗、そしてこの時代に生きた人々の人生観・恋愛観、そして自然観や美意識といったところを一つ一つの歌を読むことを通じて教えてくれた。歴史学を志していた私はそれまではいわゆる政治の視点での「出来事」に関する浅薄な知識しか持ち合わせていなかったが、これらの書物を通じて、この時代を生きた人々の心情に迫ろうとする文学研究の営みに、「あっ、これもいいな。」と思うようになっていった。

万葉百歌 池田彌三郎 山本健吉 中公新書 万葉集の鑑賞及び其の批評 島木赤彦 講談社学術文庫 万葉秀歌()() 斎藤茂吉 岩波文庫

偶然かはたまた必然か、著者の名を見るといわゆる研究者ではなく、評論家や歌人といった創作の側にある人々の手によるものばかりである。評論家が創作の立場にあるのかと問われれば、「???」ではあるが、まあ、少なくとも学術研究の立場にある方々ではないとは言えるだろう。この3冊は、いわゆる鑑賞の書。万葉集中よりそれぞれの著者の琴線に触れた歌々について解説し、その読みどころを教えてくれた。

万葉の時代 北山茂夫 岩波新書 壬申の内乱 北山茂夫 岩波新書 天武朝 北山茂夫 中公新書 柿本人麻呂 北山茂夫 岩波新書

これらはいずれも歴史の書。確か手に取ったのは一番上の「万葉の時代」出会ったかと記憶するが、とにかく最初の一冊を手に取りこの北山茂夫という歴史学者に惹かれ、立て続けに読んだ記憶がある。

以上は、大学に入って間もない頃、勢いに任せて一気に読みあさったものばかりだったので、今になって思い返せば何が書いてあったのかはほとんど覚えていない。しかしながら今になってこうやってその著者名を見れば、我ながらよい選択をしていたものだなとは思う。まあ、現代のように入門の書があちらこちらから出版されていた時代でもないので選択の幅がなかったといえばそれまでのことだが・・・

以上は、思い出す限りという前提で挙げた書名だが、ほかにも思い出せない書がいくつかあったかと思う。例えば「令和」という元号の考案者ともいわれている中西進先生のご本も確かにいくつか読んだような記憶があるのだが、そのいちいちが一向に思い出せない。

この時期の読書は縦から見ても横から見ても、乱読という言葉でしか言い表すことができない質のもの。あの本にこう書いてあったとか、この本にこう書いてあったとか言えるように、整理して知識を身につけるなんて言うことは全く出来ていない。だから、ある意味では自分の考えとの区別もつかない。渾然一体となり、私の万葉集に関するわずかばかりの知識をきわめて曖昧な形で支える土台となっている。

そしてこの時期に手に入れた書物の中で、その後も何度も手に取っては読み返し、お世話になったのが以下の3冊である。

万葉集必携 稲岡耕二編 学燈社

おそらくは当時の研究の一線にあっただろう方々が、万葉集を学んで行くにあたっての基本的な事項について、広範かつ簡略に解説してくださっているとともに、それぞれの事項について当時の段階で今何が問題になっているかと言ったことについても述べられてあり、さらにはそんな問題に関しての読むべき文章を示してくれていた。後々の勉強に大いに参考になったことは言うまでもない。そして後年、続編である「万葉集必携Ⅱ」も同じ編者によって刊行され、これもまた私の学びに大いに役に立ったこと、言うまでもない。

そして秋、私はそろそろ、ある程度小難しい専門書や論文、注釈書などにも触れる機会を持ち始めた。その頃私が出会ったのが、

万葉集物語 伊藤博・橋本達雄共編 有斐閣ブックス

であった。この書では上の「万葉集必携」よりもより紙数をさいて万葉集についての様々な事項が、時代を追って解説されていた。そこから出版されたこの書はその道の方々にはあまり知られてはいないように思われる。しかしながら伊藤博・橋本達雄という編者をはじめとし、この書に稿をを寄せた方々の名前はそうそうたるもの。万葉集を学び始めた当時の私でも、その中には幾人も知った名前があった。試みに、いかにそのラインナップを示す。

青木生子 阿蘇瑞枝 井出至 伊藤博 稲岡耕二 犬養孝 井村哲夫 大久保正 大久間喜一郎 川口常孝 久米常民 阪下圭八 桜井満 佐佐木幸綱 曾倉岑 都倉義孝 中川幸廣 長山泰孝 野村忠夫 橋本達雄 原島礼二 樋口清之 身崎壽 村山出 森朝男 森淳司 渡瀬昌忠 渡辺護

途中でやめようと思って書き始めたのだが、書いているうちにこの人も漏らせない、あの人も漏らせないとなってしまって、全部を書いてしまった。いずれも、この書の中でまかされた事項については当時の第一線を走っておられた方ばかり。是だけ揃えば、「万葉集○○」なんていう何十巻にも及ぶ体系的な研究書のシリーズが出せそうなほどである。そんな方々が一般向けに万葉集に関して、今知り得ていること、そして今問題になっていることについてきわめてわかりやすく説明してくださっており、しかもそれがたった一冊にまとまっている全295頁(索引を除く)。私などは初学のものには必読の書のように思っている。そうでない方でも、これさえ読めば万葉集についてけっこう知ったかぶりをすることができるといっても過言ではないと思っている(大きく出たね 笑)。

さて…それでは真打ち登場である。

その書名は

萬葉古径 全3巻揃 (中公文庫) / 沢瀉久孝 【中古】

である。

 

万葉集の学び始め 3

そのころ、我が母校においては他の大学にあったような「ゼミ」と呼ばれるものは存在してはいなかったたぶん今もそうなのだろうと思う。だから、祖業論文を意識し始める3年生も終わりの頃になると、学生自らが勝手に先生方の研究室を訪れ、次年度の卒業論文作成に向けて教えを請い始めるというのが一般的な形であった。むろん、大学が用意したカリキュラムの中にももちろん万葉集古事記に関する講座はいくつかあり、そこで学んだことは決して少なくはない。卒業論文を書くためのベースとなる知識はそこで得られたことは言うまでもない。

しかしながら、私の万葉集の学びは、学生たちが自主的に運営していた研究組織…万葉輪講会…においてが中心であった。「ゼミ」というものの経験が全くない私が、そのちがいを述べられるはずもないのだが、輪講会は大学のカリキュラムの中に位置づけられたものではない。あくまでも学生たちの自主運営の組織である。そこに学部の先生方に足を運んでいただいて、教えを請うという性質のものだから、参加するもしないも個々の学生の意思次第ではあった。

が、「ゼミ」というものがないために、学生たちは卒業論文を書くために必要なより高度なスキルを身につけるためにこの輪講会に参加するものが多かった半分以上の学生は参加していたんじゃないかな?そんでもって、あとの半分は個人的に先生方のお世話になっていた

長すぎる前置きはここまでにして、初めて万葉輪講会に参加した私にもその日の輪講会で使用される資料が配られた。万葉集巻7、1261番の歌がこの日扱う歌だったと記憶する。

山守之 里邊通 山道曽 茂成来 忘来下 やまもりの さとへかよひし やまみちぞ しげくなりける わすれけらしも 山守の 里へ通ひし 山道ぞ 茂くなりける 忘れけらしも

以上のように扱うべき歌の原文、続いてその訓み、それを漢字仮名交じりに表記したものここには当然、ある程度の発表者のこの歌に対する解釈が示されるよね。 それに続いて本文の異同。この歌の場合、「里邊通」の「邊」の文字と「山道曾」の「曾」の文字。それぞれ「辺」「曽」となっている本や注釈書がある程度で、発表者はそのことを紹介したぐらい。そんなに問題視はなさっていなかったと思う。どっちがそもそもの文字遣いかを探るという点を重視するならば深く考えなければならない点ではあるが、ある意味分かりようのない問題でもあり、どちらにしたところで歌意に大きく影響を及ぼすものではないというのが、発表者の意図だったと思う。

続いては訓読。これには少々問題があって、その一つ目は「里邊通」。この部分によっては上に示したように「里へ通ひし」と訓む本、注釈書が主流であったが、「里辺に通ふ」と訓む注釈書がいくつかあって、「里」とした場合と、「里辺」としたときの意味合いの違い、助詞「へ」と「に」の違いが論じられた。また「通」を「通ひし」とした時に、本来「通」という文字には含まれない過去の概念を示す助動詞「し(き)」を訓み添えなければならないが、その訓み添えの可否なども問題になった。お世話になっていたH先生は長年万葉集における訓み添えを研究なさってきた方だったから、たぶんこの時はしっかりとその可否についてコメントをいただけたのだろうとは思うが、初めて何の準備もなしに参加した私にとって、そこで交わされていた、

「~~本には○○とあります。」とか、 「万葉集私注釈には××とあり、全註釈には△△とあります。」

なんて言葉は、まったくのちんぷんかんぷん。したがってその記憶は全くない。だから、今ここでこうやって書いているのは、今の私が、この歌ならばたぶんこんな話題が出ていたんだろうなと想像しつつ、かすかなる記憶を呼び起こしたものに過ぎない。次も事情は同じである。

そしてもう一つの訓読上の問題点は「茂成来」。これはほとんどの本、注釈書が「茂くなりける」と訓んでいるところを、一つの注釈書だけが「なりぬる」と訓んでいたのだ。「けり」か「ぬ」か問題であるが、これは本文中に「来」の文字があることから「けり」と訓むべきだとあっさり決まったかと記憶する。

続いては語句の意味。初句の「山守」。「山林を見まわって番をすること。また、それを職とする人。(日本国語大辞典)」とするのが一般的な理解。ただし、発表者は『時代別国語大辞典上代』の語釈をそこで示していたと思うが、これは今手元にはないのでお示しできない。問題はそれを額面通りに受け取っていいのかと言うことだ。つまり、表面上は「山守」と書いてはいてもそれが「女の元に通う男を暗示しているのだろ理解することはできないかということで発表者は「通ふ」という語を万葉集中から用例を引っ張ってきて、その論証を試みていたと思う。そのうえでもろもろの注釈書の考えの比較検討。

後は詳しく覚えていないので省略。最後に口語訳が示された。口語訳がその歌に対する理解が集約されたものだからである。

以上のような流れで、私の初めての万葉輪講会体験は終わった。平仮名にしてたった31文字に2時間もかけていることには驚いたし、テキストに印刷された本文が原典そのものとは言い切れず、ひょっとしたら違う形であったかもしれないということには、今も上手く説明できないが、何かしら不安めいたものを感じた記憶がある。

まあ、はっきり言ってちんぷんかんぷん。こちらの力不足が思い知らされた。その日の発表者は2年生の方。たった1年で自分はこれだけになれるのだろうかと心配になってしまったことを覚えている。

ともあれ、勉強しなければならぬ…深く心に刻まれた2時間であった。